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| 32)草も木も無い種も実もある身も蓋も無いかもしれない話 1999.3.14
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野草の観察を始めて約四年たった。根っからの記憶力の弱さを何とか克服しつつ、こつこつと名前も憶えて来たが、まだまだこの道の入り口に立ったにすぎない、ということを思い知らされる事件が起こった。事件と言っても、ごく個人的な事件である。植物に詳しい人なら常識に近いことに最近やっと気がついたということなのだが、えええええええええええ!、と「え」を百個ぐらい書き連ねるほどの驚きだった。コマツナギというマメ科の草が樹木図鑑に出てきたのだ。草が樹木図鑑にである。そう、草だと思っていたコマツナギは木だったのだ。こうした草のような木は小低木と表現される。コマツナギは「駒繋ぎ」と書き、馬をつないでおけるほど丈夫なことからついた名である。丈夫なわけである、木なのだから。
しかし、このコマツナギ、この木が載っていない草の図鑑はほとんど無いのではないだろうか。草の図鑑に木を載せるなよと言いたくもなる。しかしそれだけ草と思われ勝ちで、草の図鑑を頼ってくる場合が多いとの配慮だろう。こういう例としては他にも、ノブドウやクコがある。この両者も木でありながら草の図鑑に載っていることが少なくない。そのため僕自身最初はこれらを草だと思っていたものだ。しかし暫くして木とわかっても、感動はあったがコマツナギほどの驚きはなかった。(※1) 草と木の違いは何だろう。これは僕らの生活の中で厳然として明確に理解されているはずだ。それは大きい小さい、堅い柔らかいという対比ではなかろうか。そういう対比で草と木を僕らは一瞬にして見分けている。しかしあと一つ、たぶん誰もが感づいている対比がある。それは命が長いか短いかである。実はこの三つ目の対比が決定的に木と草を分けるものなのであり、唯一の基準なのである。 コマツナギなど小低木で見たように、高い低いの対比では草と木を完全に分けることはできない。堅い柔らかいという対比、これはなかなかいけそうだが、サボテンという厄介者が居る。サボテンの幹は一般に柔らかい。草か木かという結論から言うと、サボテンは木になるのだ。堅い柔らかいは木と草を分ける決定性を欠くのである。 さて、話は少し変わるが、竹は草であるか木であるかと疑問に思った人はいないだろうか。竹が竹の子という木としては特殊な時期を持っているという他にも、根で増えるという特徴や、お馴染みの木とは思えぬ空洞と節を持つことなどから、昔から草か木かの議論がなされて来た。結論から言うと竹は木であるとされる。何故かというと、ここであの木と草を分ける唯一の基準が働くのである。「命が長いか短いか」という判断基準である。竹はこの基準に従って木と結論づけられた。同じようにサボテンも寿命が長いことにより木本であると結論づけられている。でも待てよ、これはトリックではないか、と思う人があるかもしれない。いや、必ずあるだろう。僕自身がそう思うのだから。竹やサボテンはこの基準というものに無理矢理はめ込まれたように見える。いや、その通りなのだ。実はこの唯一普遍と思える基準は一つの納得を得るものに過ぎない。本当のところ竹やサボテンは木でも草でも無いのかもしれない。 この「命が長いか短いか」という木と草を分ける判断基準をもう少し正確にしておこう。「その植物の主幹及び枝がが一年で枯れてしまうか、何年も枯れずにいるか」ということと規定できると思う。もちろん前者が草(草本)、後者が木(木本)である。ここで少し訂正が生じる。今まで文中で使っていた「命が長いか短いか」という規定は確かに間違ってはいなかったが、草には二年草、多年草があり、命が一年で尽きるとは限らないということは言っておこう。しかしいずれにしても草は木には遠く及ばず短命であることに違いはない。(※2) と、ここまで木と草を分ける判断基準に至る長い文章を書いて来たのだが、最後に言わなければならないことは、植物の分類学上では「草も木もない」ということである。図鑑では確かに木のものと草のものに大抵別れている。そして最初に述べたように僕らも木と草をちゃんと見分けている。しかし、分類学上ではその差異は皆無である。陸上植物においてコケ、シダを除く種子植物門の中で、草と木は区別されることなく一律に、(※3)裸子植物亜門、被子植物亜門の二亜門に分類され、被子植物亜門は更に、単子葉類と双子葉類に分類される。木と草という分類はまるで差し挟まれることはない。この僕らが実生活で厳然と認識している木と草という分別は、分類学上ではまさに消えてなくなり、その意味も消し去られる。 しかし実際には、植物界において草と木はある敵対性と協調性の両面性を持ち、お互いに意味を持ち共存している。荒れ地にまず進出するのがコケや草であり、水分を含んだ土壌を作る。そうしてからでないと木はそこに進出できない。また、木の根によるしっかり固定され安定した土壌を草は得ることができる。もちろんそこに太陽光線の取り合いという草と木の敵対性も同時に存在する。しかし木は木漏れ日を作り、けっして草を亡ぼさない。地表面の土砂の流出を草は防いでくれるからである。 (※1)元へ戻る このコマツナギが樹木であるということと同じ程の驚きを、実は山野草に興味を持ってほどなくある植物によってしている。それはチングルマである。これも草の図鑑によく載っており、見た目も草と変わらない。数ミリの細い茎に年輪もあるというから驚きである。 (※2)元へ戻る 草には球根で増えるものがある。特にヒガンバナのように球根でのみ増えるものは、永遠にクローンを作っていく。こうしたものの命をどう考えるかという疑問がある。球根の別れは種子からの個体の発生とは違う。一個体の命が永続するとも考えることが出来る。そういう意味でも「命が長いか短いか」の判断基準は正確ではない。 (※3)元へ戻る 裸子植物の草(草本)は、少なくとも草の図鑑には存在しない。「山渓カラー名鑑 日本の樹木」(山と渓谷社)1996年の5頁で、裸子植物の説明の中で「大部分が木本で、草本は少ない」としている。ということは、裸子植物の草も存在するということか? |